Ryuji's room / 放射線科専門医 佐志隆士

アメリカ留学記 ~艱難辛苦の米国留学~

-悲しかったり、楽しかったり、いじけたり、頑張ったり-

40 ホロコースト博物館(※1)に行く Part1

花壇の花。 陽射しが当たってきれい。
タイダルベイズン、桜、ワシントンモニュメント、矢田先生
国会議事堂と矢田先生
あくまでも人物を中心に撮影するのがコツ
カメラマンは私なので、私が写っている写真は少ない。

私はエロティックは好きでもグロテスクは苦手である。それでも矢田先生が勧めるので、ホロコースト博物館に行くことにした。
まずは朝一番に整理券を貰いに行った。人気が高いこの博物館への入館は午後であった。無料である点は他の博物館と同じであるが、警備が厳重で雰囲気が違う。

ホロコースト博物館では、まずは4階までエレベーターで上がり、強制収容所を開放した連合軍が目にした黒くなった死体の山の写真を目にする。そこから時代を体験するように展示される無数の遺品・写真、多数のパネル・テレビモニターを見ながら、暗い一本道の通路を回り2階まで降りてくる。
最後にテレビモニターでホロコースト関係生存者の証言をビデオで聞くコーナーでこの展示は終わる。

各階はテーマを持っており、「ナチの暴虐」(※2)、「the 最終的解決策」(※3)、「最終章」となっている。八角形をした「追悼の部屋」を経てから、明るく広い一階へと降りる。

アンネ・フランクもアウシュビッツまで乗せられたであろう、窓が小さく黒ずんだ輸送用貨車の中も通り抜ける。アンネ・フランクも寝たであろうアウシュビッツの蚕棚に手を触れることも出来る。 殺す前に脱がせた無数の靴の展示にも驚かされる。 収容所ではまず髪を切られたと言う。命だけでなく髪まで奪い、体力があるうちは働けるだけ働かせたナチスの狂気が理解を超える。この猟奇性をふくんだ犯罪を国を挙げてシステマティックに行われたことが歴史上類をみない。戦局が不利になった時、アウシュビッツ収容所ではガス室を爆破し、証拠隠滅を図ったとのことだから、犯罪の自覚があったことは確かだ。

-つづく-

(※1)米国ホロコースト記念博物館 1972年カーター大統領の呼びかけで設立が決まり1993年に開館する。 土地は連邦政府から寄贈されたが、183億円の寄付のみで設立されている。 潤沢な寄付を元に、優れたプロデューサー、建築家、 デザイナーがホロコーストをテーマにこの博物館を作っている。内容、質、表現ともに練りに練ったものであり、テーマ館としては世界最高水準。 

(※2)Nazi Assult 1933 to 1939  ナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)の台頭から第二次世界大戦勃発までである。 ここではナチスがどのようにして国民を洗脳し、計画組織的大虐殺を可能ならしめた全体主義国家をどのようにして築きあげていくかが展示されている。
当時、アメリカも基本的にはユダヤ難民の受け入れを拒否していたし、この期間のナチスの台頭、迫害を見て見ぬふりをしていた。「アメリカの人々が一連の出来事にどのように対応したのかを学べる」とある。

(※3)The“Final solution” 1940 to 1944 ナチスはこの結果的大虐殺のことをユダヤ人問題最終解決策と呼称した。 中身はユダヤ人の殲滅をめざす計画であった。この呼称に、口には出来ないことをするナチスの後ろめたさを感じる。 後にナチスが行った最終的解決策はホロコースト(生け贄の丸焼き)と呼ばれ、ユダヤ人(約600万人)に加えて、ジプシー、エホバの証人、障害者、精神病者、同性愛者(300~500万人)の大殺戮を含んでいた。これらの人々への扱いが欧米で非常にナーバスな問題であることはホロコーストとも関連していると想像される。 アンネの日記が書かれたのもこの時期であり、展示にも含まれている。私は中学生の時にアンネの日記を買ったが、実につまらないと思いすぐに読むのをやめた。 高校生になり三度目の挑戦で最後まで読むことが出来た。 我慢強くなったからであった。 しかし、日記が1944年8月1日火曜日で前触れもなく終わり、背筋が寒くなった。 アンネ・フランクは密告により強制収容所に送られ死亡する。

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