Ryuji's room / 放射線科専門医 佐志隆士

ベラルーシに行く 1-3

(日本ベラルーシ友好協会第24次訪問団,2000-Nov25-Dec03)

1 -ウッカによる死と復活-

放射線科最大の学会RSNAは毎年冬のシカゴで行なわれますが、今年(2000年)は演題が受かりませんでした。残念!

つまらないな思っていたところ教授から“ベラルーシに行くように推薦した。”と有難いお言葉。“えっ!真冬にベラルーシ?”と嫌がったふりをしまいたが、真冬のシカゴの代りににベラルーシも楽しいに違いないと内心は喜んでいました。それに13ヶ月も米国をたっぷり味わったのですから、旧ソビエトに行って見聞を広めることはやぶさかではありませんでした。

資本主義国家は未来を犠牲にして今を享楽している。社会主義国はその逆であるとゲバ棒を振り回していたお兄さん方が沢山いました。私が高校生の頃までは、ソビエトを理想国家だと思っている人が沢山いました。私もそうだったかもしれません。この幻想は, 浅間山荘事件から国鉄の崩壊にかけて徐々に私の心の中では薄らいで行きました。

さてベラルーシは何処にあるのでしょうか?モスクワとウィーンの中間に位置しています。ベラルーシを日本語に訳せば白ロシアです。私の好きなシャガールはたえず生まれ故郷ヴィテブスクを画きつづけた言われていますが、シャガールの生まれ故郷はベラルーシにあります。西隣のウクライナのチェリノブイリで原子力発電所の事故があって、風下のベラルーシが大被害を受けた訳です。原発事故大好きの久米宏的日本人の心の琴線に訴える国です。

行くことの条件は専門分野での現地大学での講演でありました。私の講演内容は“What's MRI? -Its easy concept and principle”ということにしました。帰国後もすぐに英語を使う機会があってlucky でした。英語の勉強を続けようというmotivationを得ることが出来ました。

今回のベラルーシ行きに推薦された大学関係者は整形外科の井樋先生(“肩”の伝道師), 耳鼻科の本田先生(新婚ボケなるも大人物)、皮膚科の多恵ちゃん先生(学生の時、みちのくプロレスを観戦後、佐志家でカレーを食べた。?!)学外からは謎のビジネスマン佐々木さん、謎の老人西成先生、明快親切な伊藤さんの計7人。

ウィーンから飛行機で3時間程で, ベラルーシの首都ミンクスの暗くさびれた空港に到着です。ここがあの“明るく強い米国”と冷戦を続けた大国・旧ソビエトの一部です。ソ連はどのような理想を追いかけていたのでしょうか?日本も含めて西側諸国の人々は、その強大な幻影に脅えたり憧れたりしていたわけです。

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2 -ウッカによる死と復活-

うらさびしい飛行場からホテルへ、ホテルはベラルーシで最高級のホテル。でも何故か暗いホテル。何せ物価が目茶滅茶やすいので、ベラルーシでは日本人はお金持ちです。おそらく日本の物価はベラルーシの20倍以上あるのではないでしょうか?

そこでミンスク医科大学の学長に会うので正装をするようにとの指令。なんせミンスク医科大学は学生数が8000人?!

物忘れの良い私は、ネクタイを忘れていたので、途中のウィーンで買った蝶ネクタイをつけて、いざ出陣です。

大学の概説があって、歓迎の夕食会です。日本と違うのはまず勝手に各自、食べ始めてしまうことです。

私は時差ボケで食欲もなくボーットしていました。これにはお腹を有る程度に食べ物を入れてウッカに備えるという重要な意味があるのですが、気がついた時はずーっと後の祭り。各自スピーチをして、そのつどグラスを空にしての乾杯。女性までいっしょになって結構、無理矢理飲ませるのです。

記憶があるのは5杯目くらいでしょうか?意識が戻った時はトイレの中で“Help me! Help me! Help me! ” 自分でかけたトイレの鍵を開けれなくて、何故か英語で“Help me! Help me! Help me! ”

これにたいしてDr. 井樋は英語(?)で私に指示を出していたそうです。この時のことは意識がまだらではっきりしません。

Dr. 本田は廊下でゲロしたけれど、私はきちんとトイレでゲロしたとDr. 井樋は私に自慢していました。トイレでゲロクソまみれの私はただただ意識が遠のくばかりでした。

苦しむ私をみてDr. 本田は心底、楽しいそうな顔、嬉しそうな(^.^)をしていたとのことであります。他人の“不幸は蜜の味”は世界共通、秋田大学新入生歓迎観桜会のノリで、ウッカ免疫のない他国からのお客様に乾杯、乾杯とか言って飲ませて楽しんでいるようでありました。

これがベラルーシで行った先々で起こるので国民性もあるのでしょう。もっとも酒を飲んで楽しまない人間は信用出来ないという感覚もあるようです。この感覚は秋田にもありますね。逆に米国のDuke medical centerでは人前で酔うような人間は“最低、最悪野郎”と判断されると複数の人から戒めらたものです。

さて翌朝、気がつくと暗い豪華ホテルのベットの上です。昨夜は何が起こったのだろうか?私は飲めばしばしばこうなるのでケセラセラです。

しかし、心優しいDr. 井樋が“佐志先生、大丈夫?生きてる?何せ上から下から大変だったからね・・・”と尋ねて来てくれました。あぁ生きていて良かった。“佐志隆士ベラルーシにて急性アルコール中毒、肺水腫にて死亡”とかになるところだった。

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3 -Japanglishで講演-

さて“生きてよかった”と生存を確認も束の間、マイクロバスに揺られて、一番大きな第九病院で、講演です。 スライドは気合を入れて作ったものの発表原稿は間に合わなくて、往路の飛行機の中で、メンタルリハーサルを繰り返しただけの準備で、オンボロ車にゆられて不安と悪心が込み上げて来ます。縦長の教室の中にびっしりと美男美女のお医者さんと学生が一杯です。

悲しいことに絶えず他国に侵略されているところは美男美女が多いとのことです。なんせ交通の要所で戦乱のたびに戦場になっていた地域で、独ソ戦争では三人に一人が殺されたといいます。

結局、本土が戦場になった経験のない日本人には他国に侵されるということの意味は判らないのだと思います。母親や娘がレイプされ殺された経験のある人々の価値観は理解出来る訳がありません。唯一被爆国とか威張ってお説教しても反感を買うだけでしょう。

さて講演ですが、私のJapanglishをロシア語に通訳する女性が大変緊張しています。“Take it easy.”とか言ってあげて、いざ“What's MRI? -Its easy concept and principle”の講演開始です。

ウケをねらって“昨晩は歓迎会があって、ウッカ飲んで死んで、今朝復活した。だから私はBelarusian”と言うと大いに受けています。おそらく、そのようにウッカを飲ませることを良く知っているでしょう。

“近い将来、皆さんもMRIを使うことになるでしょう。”と言って講演を終えると会場からboo, booです。そんなことはないというのです。旧ソ連にはまともな医療器械ないのです。大陸弾道弾は作れても、CTやMRIを作る技術は全くないのです。

旧ソ連では、医師や教師の給料は大変安いとも言われています。百歩譲って医者はともかく、学校教師の給料を安くする国は滅びてしまいます。歴史的実験であった共産主義国家は現実としては失敗であったことを実感しました。

以前、中国の緞通(絹の絨毯)工場を見学した時の話しです。 三人とか五人のチームを作り、機織りのような器械で緞通を織るのですが、織る速さが同じ人を集めてチームを作らないと上手くいかないとのことです。それで、“速いチームの人は給料が高いのですか?”と聞いたところ、“中国ではそのようなことは絶対にありません”との答え。献身と利己主義がそれなりに報を受けない社会は良い社会ではありません。(他人事ではありません。)

さて病院長が講演のお礼にあげるものは何もないから、美人学生のキスにすると学生を指名しています。女学生はもじもじしてキスをしに来てくれません。私も大変な二日酔いでしたから、身を引いてしまいました。残念!残念!

講演が終ると昼間から病院の中でウッカが用意されているには驚きと恐怖を感じました。

トランジットで一泊したウィーンでの写真を紹介します。

ベラルーシではウッカ酔いのため写真は撮れませんでしたので・・・・・。


早朝のパン屋さん ヨーロッパは綺麗!


市場で鶏を売っていました。(@_@;)


教会の中、 伝統が違うことを実感

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