Ryuji's room / 放射線科専門医 佐志隆士

アメリカ留学記 ~艱難辛苦の米国留学~

-悲しかったり、楽しかったり、いじけたり、頑張ったり-

54 米国留学 最終回

一緒に働いたfellow達は皆1年契約で、7月から新天地にむかう。Helms教授主催のお別れ会はDurham最高級のレストランで行われた。例によって伴侶付party(*)である。
キューバ出身の教授Salが高いワインをバンバン飲んで、支払いをする時にHelms教授の目が点になっていた。Fellow達にはDuke大学の名前入りの高級万年筆、私にはローズウッドの置き時計がプレゼントされた。

私は一ヶ月滞在を延ばして、残りの仕事をした。
断ってしまったが、Johnが繰り返しテキサスの実家に遊びに来いと誘ってくれたのは嬉しかった。
帰国直前にはイギリスのBBC放送がまるで違う英語に聞こえたのには、我ながら感動した。英語はかなり上手くなっていた。"上達"をみんなにほめられた。英語を褒められたのではない、英語を勉強してアメリカに溶け込もうという私の"姿勢"を褒めてくれたのである。

「車の保険会社(AAA)に帰国の挨拶をしに行ってきなさい。」とターキさんに言われた。無事だったこととアメリカへの感謝の気持ちこめて"サヨナラ"を言ってきた。後日、余分代金の小切手が秋田大学に送られてきたのにはビックリした。アメリカは多様性の国である。律儀で親切な人は限りなく優しい。アメリカで受けた数々の親切は私の人生観を変えた。

私が買った車、スタンザはターキさんが高く買ってくれた。最後の最後までターキさんにはお世話になった。ずぼらが災いして、危険な事態に何度も遭遇したが、運良く乗り越えることができた。大破綻が無かったのは奇跡的でもあった。Helms教授、台湾出身のJohn、ターキさん、矢田先生、Duane・・・友人に恵まれ、留学気分を満喫した。ライフワークの「肩関節MRI」もなんとか出版までこぎ着けそうであった。

海外留学は貪欲な人間がするものである。病弱・臆病・意志薄弱で、無欲・謙虚・眉目秀麗だけが私の取り柄である。しかし、米国留学への憧れは強かった。学術講演会では必ず、講演者の出身大学、業績とともに海外留学歴が紹介される。「羨ましいなぁ。」と思っていつも聞いていた。留学して学問的実績をあげることができる人は稀である。学問的実績だけなら今の日本でも十分にできる。しかし、"留学気分"は留学しないと味わえない。

帰国前に電話、アパート契約の解除をした。空になったアパートの鍵を閉めた時は感無量であった。最後の晩は矢田先生のアパートに泊まり、翌朝Rally-Durham空港まで送って貰った。アメリカに残る矢田先生と固く握手をして別れた。

(*)
Partyの案内には"spouse(配偶者)と一緒に"とある。
独身のハズであるattendant(准教授以上)も訳の判らない女性を平気で連れてくる。連れてこられた女性も、シャーシャーと飲み食いして普通にpartyに参加する。文化の違いである。同伴者がいると仕事の話(愚痴)にならないところが、アメリカ人生活の知恵である。
ところでattendantと言えば世話人のことである。Johnに「何でattendantと言うのや?」と訊ねたら、「判らない!」と答えてくれた。Residentやfellowの世話をするからattendantなのかも知れない。 

あとがき 最終回を迎えるにあたって

留学期間中(1999年6月~2000年7月)、留守番してくれた放射線科医局員の皆様ありがとうございました。
留学記は3回の予定で頼まれたが、私は最初から長期間の連載を意識して書き始めた。私には書きたいことが沢山あった。おかげさまで10年以上も続けることができた。
連載を最初から読み返してみると留学体験がまざまざと思い浮かびあがってくる。想い出を文章にする作業過程で貴重な体験が何倍もの価値を持ち、記憶に残るものとなった。連載の機会を与えてくださった秋田大学生協さんありがとうございました。 
後輩達には英語の勉強をして、留学をして貰いたい。幸運を祈る!!

≪このページのトップへ戻る≫