Ryuji's room / 放射線科専門医 佐志隆士

アメリカ留学記 ~艱難辛苦の米国留学~

-悲しかったり、楽しかったり、いじけたり、頑張ったり-

49 勇気を出して散髪に行く

Duke大学の放射線科は画像診断だけをしていて、核医学と放射線治療は別の建物に存在していた。放射線科はさらに8つの部門に分かれており、私が留学していたのはHelms教授をchiefとするbone sectionであった。(*)

アメリカではどんな偉い人でもファースト・ネームで呼び合うと聞いていたが、Dr. Helmsを「Clyde」と呼ぶ職員はいなかった。台湾出身のアメリカ人、Johnに「何故、ファースト・ネームで呼ばないのか?」と聞いたところ、「とても呼べないよ」というのが答えであった。矢田先生の所属するCrazy Labo.の最低の親分もファースト・ネームで呼ぶのが当然とのことであった。そこには阿吽の呼吸があるらしく、Dr. Helms以外はファースネームで呼び合っていた。アメリカ人にとってRyujiという発音は難しいらしいが、全員がすぐにRyujiという発音をマスターしてくれた。それが礼儀らしかった。

Dr. HelmsはDuke University Medical Center医師用の白のジャケットを着ており、助教授のNancy夫人は高級ワンピースの上に時々は白衣を羽織っていた。しかし、それ以外の放射線科医は値段のはりそうなワイシャツにネクタイという出で立ちであった。そもそも白衣姿というものが稀なので、誰が看護婦かも判らなかった。しかし、医師はneat(小ざっぱり)で、小綺麗でエリートの雰囲気を漂わせていたので、何となく判った。これまたJohnに「neatであることは要求されているのか?」と聞いたところ、やはり、「何となくそういう雰囲気なのだ」ということであった。

Duke大学の医師全員がneatに散髪をしていた。(**)私も散髪に行くしか選択肢が無かった。散髪屋に行くのにも勇気がいる。清水の舞台から飛び降りる覚悟で入った最初の店は通勤途中にあった。店に入ると店員の男性が一人いて他のお客もいなかった。英語はほとんど喋れなかったので、「hair cut」と言って、ただ散髪をしてもらった。髪を洗う時は、椅子が後ろ向きに倒れることがアメリカ流である。髭剃り、耳掃除、マッサージは無く、cutは10分で終わって、「10ドル。」と言われて払った。後から考えるとチップを払うべきであったようだが、英語もろくに喋れない東洋人相手のためか、嫌な顔もされず、お互いに「Thank you」と言って、初めての散髪は無事に終了した。ところがその店はすぐに閉店してしまった。それで森の中に散髪屋らしき小さな一軒家を見つけて入った。そこには数人の店員と他のお客さんもいた。しばらくのやりとりの後、メアリーというおばさんに散髪をして貰うことになった。メアリーおばさんは話し好きで、30分間の散髪の間じゅうずぅっとお喋りを続けてくれた。アメリカ人は沈黙を嫌うというがその通りであった。私にとっては良い英会話の練習になった。

Bone sectionは英会話を練習するなどという雰囲気はまるで無かった。職場で英語が喋れないということはありえないことであった。画像診断だけは、他のレジデントやフェローに教えることが出来たので、かろうじて生存できた。

メアリーはどうやら、週に数回だけ店の一部屋を借りて独立して働いているらしかった。散髪代は18ドルであった。二回目に行くときにはチップを払うことが判って、20ドル払うとメアリーは本当に嬉しそうな顔をしてくれた。「また指名予約をしてくれ」と言ってくれたので、留学中はメアリーに毎月散髪をしてもらった。散髪して貰いながら英会話の練習ができて20ドルは安い!と思った。ターキさんに「散髪屋さんの予約をする。」と言ったら「佐志先生は予約をするような高い店に行っているのか?」と驚かれた。予約が必要な店は高級なのだろうか?
「帰国が近づいている」と言ったら、メアリーは「Ryujiは日本に帰ったら、どうやって英語の勉強を続けるのか?」と聞かれた。親しくなったアメリカ人からはほとんど同様の質問をされた。アメリカに来て、英語を一生懸命練習して、アメリカ社会に馴染もうとする態度に対して敬意を払うらしい。キューバからの亡命者でDuke大学のTopレジデント(***)にもなれたS教授のキューバ訛りの英語をbone section秘書は「ミゼラブル!」と言った。 努力して進歩する過程が大切らしい。
帰国して私の英語力は元の木阿弥になった。 残念!!


日本の大学教授にあたるのはchair man(主任教授)と呼ばれる。主任教授はユダヤ人で元々chest section出身のDr. Ravinであった。Chest のチーフはこれまたユダヤ人の Dr. Goodmanで、名古屋市立大学の原真咲先生を介して、私を最初にDuke大学に招いてくれた。Dr. Goodmanは、Dr. Helmsとカリフォルニア州立大学サンフランシスコ校時代からの親友ということだった。Dr. Goodmanは私をHelms教授に紹介してくれ、留学の仲介もしてくれた。

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何となく判ると言えば、Johnは、「ユダヤ人はユダヤ人だと何となく判る」そうである。日独伊三国同盟の関係で日本人を毛嫌いするユダヤ人がいると聞いたが、Duke大学のユダヤ人医師とその家族はむしろ私に親切であった。金髪で青い目をした白人の方に冷たい雰囲気を感じた。小学生の時に台湾から移民して来たJohnはbilingualで、 外人(日本人)の気持ちも判るらしかった。親切なJohnは私のどんな質問にも丁寧に答えてくれた。Helms教授も昨年来日された時に「Johnは本当にいいやつだった。」と述懐していた。

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放射線科の廊下には映画Top gunのシーンで出てくるような歴代成績優秀者のメタル・プレートが飾られていた。

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