Ryuji's room / 放射線科専門医 佐志隆士

アメリカ留学記 ~艱難辛苦の米国留学~

-悲しかったり、楽しかったり、いじけたり、頑張ったり-

41 ホロコースト博物館に行く Part2

アメリカ歴史博物館を出ると夕陽が国会議事堂にあたっている。
空高く、大きな大きな虹がかかっていた。
振り返るとワシントンモニュメントに夕陽がさしていた。

秋田大学に入学して、すぐにフランクルの「夜と霧」1.を買って読んだ。本文とは無関係に掲載されていたユダヤ人虐殺の写真を見ていたためか、ホロコースト博物館のおどろおどろしい写真を見ても平静でいられた。
むしろ殺される前に撮影された美しく芸術性の高い人物写真の数々が、その後に待ち受ける彼らの恐ろしい運命と対比されて心に刻まれた。
四階から二階まで降りてくると最終章2.となり暗くて長い展示も終わる。
ここを出ると「追悼の部屋」がある。ここはダビテの星を連想させる八角形をしている。
沢山のロウソクが灯されていて物音一つ無い。ここの床で、倒れて動けなくなっている青年がいた。「打ち砕かれる」とはこういうことを言うのであろう。彼はホロコースト犠牲者の孫かもしれない、ひょっとすると加害者側ドイツ人の孫かもしれない。
おそらくはアメリカの普通の若者であろう。私が留学中に出会ったアメリカ人の大半は善意にあふれた理想主義者である。アメリカ人も捨てたものじゃないとつくづく思う。
こんな好青年達を大義名分のもとに戦場に送り続けるのもアメリカである。
皇国史観による日本国民洗脳は、ナチイズムと方法論で共通性がある。
しかし、アジアの人々からも尊敬されようと思っていた八紘一宇は、隣国民からすれば大きなお世話、荒唐無稽であった。
一方、ナチスの最終解決策は「目障りな人たち」を全て抹殺しようとする現実的方法である。事実、大虐殺をおこなった。
単一民族、単一国家への憧れは危険を孕んでいる。
ホロコースト博物館を出て、待ち合わせをしていた矢田先生と一緒にアメリカ歴史博物館に行ったが、心の切り替えが出来ないうちに閉館の時間になってしまった。
ジョージタウンのレストランで、夕食をとってからDCを発つことにした。
今度は洋食屋さん(?!)に入り、二人ともハンバーガーを注文した。しばらくすると、何故かステーキが運ばれて来た。矢田先生と顔を見合わせたが、とにかく食べてしまうことにした。美味しかった。半分食べたところでステーキは下げられ、注文したハンバーガーが運ばれてきた。チェーン店のモノよりはるかに美味しく、ステーキ代も請求されること無くほっとした。

DCからの帰路は、深夜を越えてしまっていた。ガソリンが減ってきて、ダーラムまで辿りつけそうにないことに気がついた。インターステートの周囲は漆黒の森、森である。闇の中でライトが一つ点いている無人スタンドの給油装置からガソリンが出てきた時は本当に助かったと思った。

以下、月曜日の夜に矢田先生から受け取ったメール。(原文のまま)

「お疲れさまでした。佐志先生DCではいろいろとありがとうございました。とても充実した2日間を過ごすことができ大変満足しています。今日はラボまでご足労頂いたのに、あいにく不在で申し訳有りませんでした。 後日、領収書のコピーをもって伺わせていただきます。記憶ではメキシコ昼食$20、ベトナム夕食$50、モーテル$68、アメリカン夕食$44(total$182)で一人$91程と思います。またしても、二人でいくと信じられない値段で楽しめることを実感しました。日本での忘年会2万円を思うとできるだけいろいろな所へ行きたいと思います。今後ともよろしくお願いいたします。矢田 豊」

1. 「夜と霧」:
強制収容所での体験談は実に生々しい。ユダヤ人が一方的に被害者でも無く、親衛隊のドイツ人皆が悪人という訳でもない。
収容所支配にユダヤ人をも利用するナチスのやり方がやるせない。アンネの日記とは正反対に、著者のフランクルは連合軍によって突然に解放される。
2. Last chapter :
最終章はホロコースト博物館の三番目のフロアーで、強制収容所の開放とその後である。ユダヤ人を助けようとした勇気ある人もいれば、ホロコーストに加わった人もいる。
しかし、ヨーロッパの大多数の人は傍観者であったとある。


皇国史観:
日本の歴史が万世一系の天皇を中心として展開されてきたと考える歴史観。日中戦争から太平洋戦争期に,国民統合と戦争動員に大きな役割を果たしたが,敗戦により凋落。(大辞林)
八紘一宇:
天下を一つの家のようにすること。第二次大戦中,大東亜共栄圏の建設を意味し,日本の海外侵略を正当化するスローガンとして用いられた。(大辞林)

≪このページのトップへ戻る≫