Ryuji's room / 放射線科専門医 佐志隆士

アメリカ留学記 ~艱難辛苦の米国留学~

-悲しかったり、楽しかったり、いじけたり、頑張ったり-

01 -はじめの一歩in 米国-

初めてDuke大学へ行った時にターキーさんがチャペルの前で撮影してくれた写真

留学の半年前、シカゴ発成田行きの飛行機の中での話しです。

私はDuke大学を訪れ、米国南部の“ど” 田舎の素晴らしさ、澄んだ空気、青い空、素朴な人情に触れてここなら留学したいと思っていました。(秋田に来た理由といっしょ!)それにBone sectionのHelms教授は好色で冗談の判る人のようだし(これは後日、事実と判明)。

ところで飛行機の隣席の紳士が厚いpaper bookを読んでいました。

そのspeedが猛烈に早い!私が日本語で読んでも1週間はかかりそうな本を英語で数時間で読み終えてしまったのです。

あまりに早いので日本人ではないかもしれないので、おそるおそる“日本語喋れますか?”と聞いてみました。すると流暢な日本語で“もちろん”日本人でした。

米国にはイタリア人の奥さんと娘さんがいらして、職場は日本の大学で教官をなさっているとのことでした。それで色々話しをして、自分は米国へ留学したいと思っていると相談しました。

紳士いわく、留学したらまず自分の要求は必ず出さなければダメだ。最低、机を貰う必要がある。それからしばらくして慣れてきたら米国を車で旅行しなさい。Highway はアメリカの創りだした文化の最高のモノのの一つだから、是非それを体験するべきた。この二つのアドバイスしてくれました(このアドバイスは後日、有益と判明)。

私:“私の英語力はアメリカ人の小学生並かもしれない。”紳士:“小学生以下でしょう。私は娘が観て笑っているテレビのソープ・オペラが笑えない。”

隣の英語の達人が娘より英語が判らない!?。半年後に私は痛いほどに小学生以下の英語力を実感させらることになりました。

Duke Medical CenterでのHelms教授と初めての会話です。私:“机が欲しい。”Helms 教授:“???”なぁ、なんとデスクが通じない。

私“DeSuKu, DeSuKu,”Helms 教授“???, ???・・Oh, Desk!”私の艱難辛苦のハジマリはDesk が通じないことでした。

そして艱難辛苦の2番手はHelms教授の“I can not give you a desk.”の答えでした。それは留学地獄の幕開けでもありました。それでも暫くするとHelms教授にだけは英語が通じるようになりました。

しかし、ふと気がつくと勘の良いHelms教授は“Oh. Ryuji, ぺらぺらぺら・・・”私が話す前から私が言いたいことが判ってしまうのです。心優しくて勘が良くて(女性好き?)、Luckyと言えば超Luckyではありました。Helms教授大好き。

≪このページのトップへ戻る≫